【第8話】原田マハ『奇跡の人』人の可能性を信じることができない、信じたい人へ。
こんばんは。
台風のため珍しく夕方に帰宅しましたが、テンションが上がりすぎてご飯を食べすぎたため寝てました。okapです。一旦起きましたが、結局いつもと変わらん時間や。
今日は、原田マハつづきで『奇跡の人』を紹介します。
その顔を、いつも、太陽のほうに向けていなさい。
あなたは、影を見る必要などない人なのだから。
ーーヘレン・ケラー
言わずと知れた、三重苦を乗り越えた人・ヘレン・ケラー。彼女の言葉からスタートします。
舞台は津軽。
岩倉使節団に僅か9歳で参加した去場安(さりば あん)。
彼女は、22歳までをアメリカで過ごし、最先端の教育を受けます。当時の日本の女子としては、かなり異例なことです。
家長制度がまだ強く残っていた当時、結婚して子どもを産むことが唯一求められた役割でした。
自分の受けた教育を、日本の子女に行き渡らせるーーそう思って帰国した安は、ショックを受けます。アメリカの教育を身につけた自分にさえ、父親が縁談を持ち込んだことに。
相手は、伊藤博文でした。
安はこっそり、結婚を断る手紙を書きます。
無事、縁談は回避できた安ですが、自分が望んだような女子教育のための活躍の場は日本にはなく、仕方なく華族の婦女子に英語やピアノを教えていました。
弱みを強みに変える教育。
貴賎の別なく、いかなる女性にも開かれた教育。
そんな教育に携わりたい。
そんな思いを胸に抱きつつ、もどかしく過ごしていた安のもとに、伊藤博文から手紙が舞い込みます。
津軽に住む、地元の名士が、長女の教育に悩み、苦しんでいると。
一つ。れん嬢は、盲目です。まったく、見えません。
二つ。耳が聞こえません。
三つ。口が利けません。
いかがでしょうか。
そんな少女の教育に、あなたは、はたして、ご興味をもたれますでしょうか?
かくして、安は津軽に旅立ち、介良れん(けら れん)と出会います。
汚い蔵に閉じ込められ、けものの子のような扱いを受けていた、れん。
けれど、安は彼女を一目みた瞬間に、光を感じます。
かすかにめまいを覚えるほど、まぶしい少女だった。強烈な光を放つ人だった。
そして、他の誰もが諦めていた、れんの教育に着手します。
れんの可能性を心から信じて。
そこから、安とれんの怒涛の日々が始まるのですが、ここまで聞いて、思い当たる人物がいますね。
津田梅子です。
当時最年少(6歳)で岩倉使節団の一員として渡米した梅子。
17歳で帰国し、日本の女子教育に関わりたいと思っていたこと。
伊藤博文の紹介で、華族女学校などで教鞭をとるが、自分自身の学校をつくる夢をもちつづけ、アメリカに再留学します。
この際、梅子はヘレン・ケラーも訪ねています。
そして、再び帰国し、念願の自分の学校をつくるのです。現在の津田塾大学ですね。
安の人物像というのは、この津田梅子と、サリバン(ヘレン・ケラーの先生)をモチーフにしているのではないかと思われます。
と、これだけでは、この物語は終わりません。
もう一人、重要な人物が登場します。
ボサマのキワです。
ボサマというのは、津軽地方の旅芸人を指します。その多くは、盲人男性で、ときには女性や子供も一行に加わります。三味線を弾きながら、各戸の勝手口などで民謡を唄い、米や小銭を恵んでもらうそう。
キワは、れんと同じ年頃の少女でした。目は見えません。
お喋りするのではなく、二人はお互いに触れ合うことで、仲良くなっていきます。
同年代の、同じ盲目の少女(しかも、キワは聞こえるし喋れるので、れんより習得がはやい)と共に学ぶことで、れんは急速に成長していきます。
全編において、ヘレン・ケラーとサリバンの色が濃いこの物語のなかで、キワは異色です。
解説にもあるように、ヘレン・ケラーとサリバンは二人で話が完結するところを、この小説では、キワという同じ年頃の少女を登場させています。
そして、このことが、物語終盤の大きな感動につながっていきます。
きっと、読むたびに、何度も違う発見があるのでしょう。
とても、懐の深さを感じる物語でした。